関西学院大学 体育会 山岳部

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中島健郎氏 Panbari Himal(6,887m)初登頂!

 

未踏峰パンバリ・ヒマール 踏破!!中島 6778メートル

《「関学スポーツ・193号」 2006年11月21日より転載》

未踏峰の頂、ネパールのパンバリ・ヒマール。標高6778メートルのこの山の登頂に中島健郎(理4)が見事成功。25日間にも及ぶ登山期間の先には、感動の景色が待っていた。

涙の登頂!山岳部史に名を刻む

9月29日、山岳界の歴史に名を刻んだ男がいた。山岳部、中島健郎。彼は未踏峰であるパンバリ・ヒマールの登頂に成功したのである。

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※この新聞は、林基彦氏より提供されたものです

挑 戦

中島は全国の学生から5名選出されたヒマラヤ遠征隊の一員として参加。しかも関西から選出されたのは彼のみであった。登頂のための準備は、昨年12月から始まった。合同合宿を行い、体を少しでも山の高度に順応させるため、富士山の登頂を8回行ってきた。日本の山には氷河はないが、パンバリ・ヒマールは氷河や雪に覆われた山。そのため国際山岳ガイドの人から技術指導を受け、どんな状況にも対応できるよう、準備を整えていった。しかし彼自身、富士山への登頂が最高であり、しかも未踏峰への挑戦。抱いた不安は少なかった。だが、このチャンスを前に迷いはなく、中島は一年の休学を決意。そしてついに9月7日、ヒマラヤ遠征隊の挑戦が始まった。頂上に至るまでは、ベースキャンプ、それからキャンプと呼ばれる基地を3ケ所経ていく。まず2週間かけて歩き、ベースキャンプ地に入った。5名の隊員たちは、基本的に2パーティに分けられて登っていく。未知なる道を切り開きながらルートを延ばしていく工作隊は、スピーディに上を目指す。そして重量のある物資を運ぶ荷上げ隊がそのあとに続く。ベースキャンプからは氷河に覆われた道。隊員たちは、命綱をつなぎ、自分の命を預け合い、進んでいく。極限の寒さの中、幾つもの苦難と試練が彼らを襲った。天候が安定せず、モンスーン(季節風)の影響で雨や雪の降る日が続く。新雪が積もると、圧雪しなければ進めない。迷路のようなアイスホールも隊員たちの行く手を阻んだ。また8㍍もの深さの氷河の割れ目にも落下。脱出できたものの、これは絶体絶命の危険であった。さらに呼吸も腹式呼吸。ただ息をすることさえも辛い。しかも高所になればなるほど、血液の循環をよくするため、水分も多く取る必要がある。しかし水も、雪を溶かし自ら作らなければ摂取できない。5300m辺りから高山病が中島を襲う。酸素が脳に回らず、頭痛や吐き気が彼を苦しめる。「もう無理ちやうかな」。この言葉を幾度も中島の頭をよぎった。しかし何度もあきらめかけた彼を救ったのは、彼の「登りたい」という純粋な思い。そして何よりも励まし合い、どんな困難もともに乗り越えてきた隊員たちの存在だった。着実に彼らは一歩一歩前進していった。最終アタック3日前にもモンスーンも明け、天も味方につけた。

奇 跡

9月29日9時40分。遂に彼らはパンバリ・ヒマールの頂に上りつめた。前人未到の地。人生の中で一番高い場所に立っているんだ。そんな気分に浸った。皆は叫び、抱き合い、涙した。眼下には中国やチベットのかなたまで望める絶景が広がっていた。自分たちが歩いてきた道が見える。「やっと着いんや」。彼の目からは涙がこぼれていた。立ちはだかる壁が大きかった分、達成感もひとしおだった。

「奇跡」。中島は今回の25日間に及ぶ登頂をそう語った。彼の惜しみない努力、巡りめぐった「運」、そして隊員たちの絆。全てがうまく重なり合い、初めて叶った奇跡の登頂だった。(高橋恵子)

学生部パンバリ・ヒマールに初登頂

《日本山岳会『山・11月号 No.738』より転載》
隊長 加藤好美

感激の全員登頂

今年の夏、学生部は遠征隊を組織し、ネパール・マナスル山群の未踏峰パンバリ・ヒマール(Panbari・Himal6887m)に挑戦し、9月29日、アタック隊員5名全員が初登頂した。この計画は日本山岳会100周年記念事業の一環として進められ、多くの会員からご支援を頂いた。メンバーはベースマネージャー1名と、5大学6名の学生である。4校が首都圏の大学山岳部で、関西から1名が参加した。

8月16日、20日と2隊に分かれてカトマンズへ入り、23日にベシサールからキャラバンを開始した。まだモンスーン期間であるため、何度かの渡渉を余儀なくされながら、ぬかるんだ道をマルシャンディ川ぞいに進む。29日、ビムタン(3800m)に着く。ここは開けていてパンバリ・ヒマールの南西面の岩壁をはじめ、ギャジ・カンや、マナスルの上部も展望できる快適な地だ。この地をキャラバンベースとして6日間かけて、ラルキャラ(5100㍍)峠を往復し、ゆっくり高所順応する。9月7日に峠を越え東面へ。サムド手前のラルキャ・バザールから北上し、フカン氷河に入り進路を西にとる。6日、4865mにBCを設営。

初めての氷河に踏み込み、9日、5235mにC1設営。そこから約800mのアイスフォール帯となる。経験不足から突破に時間がかかり、予定より大幅に遅れ、9月18日、アイスフォール上の5740mにC2設営。21日夜から4日間天候が悪化。ホワイトアウトとヒドンクレバスに苦戦しつつも、22日、6280mのプラトーにC3を設営。だが稜線を間近に見ることはできなかった。

モンスーンが明けた27日、BCから5名全員でアタックに出発。29日、星空を仰ぎC3を3時半に出る。北側のコルから広い稜線に取り付き、そこから約500mひたすらラッセルする。そして9時40分、5名全員がパンバリ・ヒマールに初登頂した。

初のヒマラヤへの期待と好奇心

今回のメンバーは海外登山に熱い思いを抱きながらも、部員不足などさまざまな事情から実現できずにいたが、海外登山への期待は大きかった。若さゆえの好奇心かもしれないが日本とは違う自分たちだけの静かな世界を見たかった。人と地球とがありのまま向かい合い、一人ひとりがそこで何を思うか。異文化での新鮮な刺激を存分に感じ取りたかった。

今年はマナスル初登頂50周年、登頂すれば大先輩たちが成し遂げた偉業の山、マナスルを自分たちの目で間近に見られる。それがパンバリ・ヒマールだった。

計画・実力への疑問の声

全員が本格的な遠征経験もなく、昔の先輩たちのように国内でも先鋭的な困難な登山を行っているわけでもない。そのため準備段階から疑問の声が多くあったが、これらの事だけを考え準備した。

まず問題点を書き出し、ひとつずつ解決していった。ミーティングも最低週1回行い、合同合宿や富士山へも通いつめた。わからないことがある度に、日本山岳会の大きなネットワークを利用し、多くの方からご協力を頂き、さまざまな体験談を聞き勉強した。だが情報はあくまで参考とし、自分たち自身で検討し、思うようにやってみることにした。

「百聞は一見にしかず」で、実際に経験しないことには何も始まらない。例えそのやり方で失敗しても、それは次につながる貴重な体験となるに違いない。

異文化環境を心から楽しむ

2ヶ月間のネパール滞在では高山病も含め、五感でネパールを楽しんだ。それも素晴らしい現地スタッフに出会えたおかげだ。 彼らは終始、笑顔で献身的に働いてくれた。彼らが私たちのために日本語をできるだけ話すよう努力する。だから私たちも体当たりで話しかけ、自らのメモ帳に書き込んで着実にネパール語を覚えていった。気がつくと、ダルバーと(カレーに似た豆スープ料理)もスプーンを使わず手で食べるようになっていた。トイレも紙ではなく水を使用した。ごみ処理問題を切り離すことができない登山という行為において、実に利にかなっていた。彼らとの交流を通じ、自然に彼らと同じ目線に立ちネパールと一体化することを望んだ。今にして思えば、同じ目線ゆえに見えるもの、本質的な部分を少し理解することができたようだ。

シェルパゆえの苦戦

登路での核心はやはりC1から6000mまでのアイスフォールの通過であった。9日にC1を設営後、高所順応が順調で動けるものが率先してのルート工作の日々が続いた。聞いていた通り、氷河は迷路であった。1日かけてロープを延ばしても複雑なクレバスに行く手を何度も拒まれ、タクティクスも大幅に狂った。突破できなければ時間切れで敗退、というプレッシャーもそのころ感じ出した。ルート工作隊のため水を作って帰りを待ってくれている隊員にも、申し訳なく感じた。そんな夕方は毎日のように、夕日が白い頂の上にオレンジ色に輝いていて、山の神々が「また明日おいで」、そう励ましているように感じた。

山頂に立ったとき

登頂の瞬間を思い出す。先頭が「やったー、頂上だ!ビムタンが見える!」と叫んだとたん、皆、疲れを忘れ駆け寄った。目の前に大きなマナスルが飛び込んできた。思わず立ち止まった。さすが8000m峰!圧迫感があった。それでいて美しかった。ここは人類史上だれも踏み入れた事のない場所だという興奮を抑えて我に戻って考えると、言葉にできない感動が込み上げてきた。とても清々しくて、どことなく恥ずかしい気持ちになった。そして、これまで支えてくれた多くの方の顔が次々に浮かんできた。キャンプの撤収・ロープ類の回収も、自分たちが決めたように安全確保を最優先しながら最善を尽くした。貴重な未知の世界であるし、あるがままの自然の姿を保って欲しい。すべて回収とまではいかなかったが、氷から抜けなかったスノーバー3本以外はカトマンズまで持ち帰ることができた。

遠征が終わるとき

私は大学山岳部での部員不足、同期生がいなかったこともあり、この学生部の集まりが楽しく、居心地のいい空間だった。学生部では多くの方々から刺激を受け、それは私の考え方や方向性を導く指針となった。学生部に育ててもらったようなもので、人一倍学生部への思いは強く、その恩返しがしたかった。

‘04年に、同じく100周年記念事業として学生部がムスタンに遠征した。今回はその第2弾と私はとらえている。当時、私はムスタンの報告を先輩たちから聞いて感銘を受けた。そして自分もいつか学生部として、他大学と一つの夢を叶えたいと願い続け、ついに今回の遠征をするに至った。まだまだ新米の弱小の学生隊であったが、全員登山で役割を確立し、互いにカバーしあい、困難を乗り切ってなんとか夢を実現できた。

部員減少傾向は多くの大学山岳部の現状である。自分のクラブだけにとどまらず、自分が感銘を受けたように、今度は他大学の若い学生に体験を伝えてあげたい。そして一緒に山に登り、山の楽しさや魅力を伝えたい。・・・(略)・・・次の後輩たちへ惜しみない協力で貢献していきたい。

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